都城市「大島畠田遺跡」に追加指定!古代~中世の社会構造を示す貴重な史跡
令和6年6月24日、国の文化審議会は、都城市郡元町に所在する「郡元西原遺跡」を国指定史跡「大島畠田遺跡」に追加指定し、史跡の名称を「大島畠田遺跡 附 郡元西原遺跡」とするよう、文部科学大臣に答申しました。
郡元西原遺跡:領主居館跡、11世紀後半~12世紀前半
郡元西原遺跡は、11世紀後半から12世紀前半にかけての領主居館跡です。平成28年度から令和元年度にかけて、市教育委員会が行った発掘調査では、大型と小型の溝状遺構からなる一辺の長さ50~60mの方形区画と、その区画内の多数のピット(柱穴)群と4棟の掘立柱建物跡などが確認されました。
大島畠田遺跡:9世紀中頃から10世紀前半の富豪層の居宅跡
都城盆地では、9世紀中頃から10世紀前半にかけて、集落形成と耕地開発が大きく進展しました。この時代の代表的な史跡が、都城市金田町にある大島畠田遺跡です。この遺跡は、地域開発を主導した富豪層の居宅跡と考えられています。
11世紀後半以降の開発と郡元西原遺跡の役割
10世紀後半以降、集落数は一時的に減少しましたが、11世紀後半以降は低地の水田開発や台地上の畑など、区画に基づいた開発が進み、集落数は再び増加しました。郡元西原遺跡は、この開発の初期段階における拠点施設と位置づけられています。
大島畠田遺跡と郡元西原遺跡の価値
このように、大島畠田遺跡と郡元西原遺跡は、日本列島の南端に位置し、古代から中世へと変化する社会を具体的に示す貴重な遺跡です。今回の答申は、両遺跡が持つ歴史的価値と重要性を高く評価した結果と言えるでしょう。
大島畠田遺跡と郡元西原遺跡:古代から中世への移り変わりを語る証人たち
都城市の大島畠田遺跡に、新たに郡元西原遺跡が追加指定されたことは、古代から中世にかけての社会構造や生活様式を理解する上で非常に重要な出来事と言えます。
特に、郡元西原遺跡は、11世紀後半~12世紀前半の領主居館跡であり、当時の権力構造や社会組織を知る貴重な手がかりとなるでしょう。大規模な区画や掘立柱建物跡などは、当時の社会が高度に発達していたことを示しており、考古学的な調査によってさらなる知見が得られることが期待されます。
大島畠田遺跡と郡元西原遺跡は、単に歴史的な遺構としてだけでなく、古代から中世へと移り変わる時代の変化を具体的に示す証人として、私たちに重要な教訓を与えてくれます。これらの遺跡を保護し、後世に伝えることは、私たちの文化遺産を継承していく上で欠かせない責務と言えます。
今後、両遺跡の発掘調査や研究がさらに進展し、古代~中世の社会構造や人々の暮らしについて、より深い理解が得られることを期待しています。