山内東一郎の物語
2026-01-19 11:22:15

「ピッケルの神様」山内東一郎の遺志を綴る新著が登場

近代日本の名匠、山内東一郎の物語



2026年1月19日、株式会社山と溪谷社から新たな著書が刊行されます。タイトルは「ピッケルの神様 山内東一郎物語近代日本のものづくりと登山史を支えた孤高の職人」。この本は、昭和初期から登山界に名を馳せ、「ピッケルの神様」と称された職人、山内東一郎氏の生涯を描いています。

山内東一郎とは


1890年、青森県生まれの山内は、早くから鍛冶の道に目覚めました。東北帝国大学の機械工場での職務を経て、1924年に自身のピッケル作りに取り組み始めました。自らの工場を仙台に設立し、山岳用具の製作に情熱を傾ける姿勢は、彼の職人魂を象徴するものでした。彼の理念は「鉄の声を聞く」というもので、良質な道具を作るための研ぎ澄まされた感性がありました。

厳しい信条と製品の進化


山内は製品に妥協を許さず、その信条のもとでピッケルを製作しました。「下手なものを作れば、間接的に登山者を死なせることになる」という強い自責の念が、彼を駆り立てました。その結果、彼が手がけたピッケルは、1956年のマナスル初登頂など、数々の歴史的登攀に使われました。このように、山内の製品は単なる道具以上の存在となり、登山者たちの命を預ける信頼の象徴となりました。

独自の技術と展望


山内は1930年、世界で初めてニッケル・クローム鋼を用いたピッケルを製品化するという偉業を成し遂げました。これは彼の創造力と革新性を示すものであり、彼のピッケルがいかに特別なものであったかを物語っています。1949年には松濤明の遭難事故に際し、山内のピッケルが使用されたことも記憶に残ります。彼は1952年には皇太子にピッケルを献上し、次第にその名声は広がっていきました。

職人としての最期と影響


山内は1966年、75歳で逝去しましたが、彼の遺志は今なお続いています。没後30年を迎えた1996年には、仙台市博物館での特別展が開催され、山内の功績を広く知らしめる取り組みがなされました。彼のピッケルは、現代の登山者にも強い影響を与え続けています。

本書の目的


この新著では、山内東一郎の生涯を通じて、日本のものづくりの真髄や、登山にかける情熱がいかにして形づくられたのかを深く掘り下げています。現代の効率優先の風潮に対し、彼の「孤高の職人魂」を問い直すことで、読者に新たな視点を提供します。

まとめ


「ピッケルの神様」の発売を通じて、我々は山内東一郎の人間性と彼が残した功績を再認識し、彼の精神に触れることができるでしょう。登山者たちが長年にわたり彼の製作した道具に寄せてきた信頼、その背後にある物語を知ることで、自分自身の登山体験もより深いものとなるはずです。


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